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このブログについて

本ブログは、新機動戦記ガンダムWの新作シリーズとして最近ガンダムエースで展開中の『Frozen Teardrop』、および『Endless Waltz 敗者たちの栄光』の考察・感想・情報収集のために運営しております。基本的に、どこよりも早いニュースや、あらすじの掲載はありません。にも関わらず、発売日以降は既知としてネタバレ全開で扱いますので、悪しからずご了承くださいませ。


エントリは、誤解を招く内容を発見した時や、状況が変化した場合に加筆修正する場合があります。

2011年11月26日

つぶやきまとめ:カトルについて考えてみた

2011/11/15のTweetより

カトルは本当に優しいだけの人かしら? という問いかけがあったので、考えてみました。
カトル好きな人を怒らせかねない考察になっております。
途中で、カトリーヌと比較したりしているので、カテゴリはFrozen Teardropにしております。

  • 私は私でカトル様の考察を進めておったのですが、私の中のカトル様観かなりひどいので公開するときっと怒られます。
  • EZが腐海に埋もれたので、EWの文庫本片手で。EZにしかないところはうろ覚えなので、間違っていたら指摘していただけるとうれしいです。
  • 5人のうちで、カトルだけ、オペレーション・メテオまでに大事な人を失ってないんですよね。
  • じゃあなんで戦うのかというと、うろ覚えのままEZから引用するに「ボクは自分を誇りに思える人間になりたいんです」何甘いこと言ってんですかカトル様(※くどいようですが私はカトル好きです)
  • 家出した際に連合と交戦しているので、殺人はやっちゃったかもしれないけど(カトリーヌはこれがきっかけで普通の人生から転落した)、取り返しのつかない道を突き進んだという感じがしないのですね、彼だけは。
  • やばい、トレーズ閣下と同じ思考回路にはまりかけた。カトル様要するに戦いを自己実現の手段にしてしまってるのではないかと。命がけだし、本当に優しいからだろうけど……。
  • 自己実現で殺人をやっちゃうのはやばい気がする。気持ちはとてもよく分かるけどやっぱりそれはやばい。真に地球圏のために役立ったかどうかは別として、切実さの解消としては、あまりにも対価が釣り合ってない。
  • ドロシーはTVの最後らへんの決闘で、カトルがあまりにも利他的で優しいのがいかんと断罪していた気がするけど、EWとEZを通してみるとちょっと違うような気がしてならない。
  • そんなわけで自己実現のためにうっかりガンダムに乗ってしまったカトルですが、父を失って姉を傷つけて、初めて知ってしまったのかもしれない。アイデンティティを求めるあまりに自分が戦いによって何をしでかしてしまったのかを。
  • ザイードは、カトルのそんなところを案外見抜いてたんではないかしら。誰もが通る思春期のはしかみたいな感じで……(というのも、ザイードにカトルに似た匂いを感じるからで)
  • ザイードのどこがカトルに似てるって、思うところを資金にあかせて実行に移してしまうところですよ。しかもやりすぎな形で。何ですか29人(のちに30人)の試験管の娘って。
  • 父親と和解できないまま喪って、彼のやり方ではだめだという信念が強化された挙句にゼロを造ってしまうのだけど、誰かのため戦うとか言いながら、結局家族も守れなかった自分に耐えられなかったのではないかしら。ゆえにサンドロックの再建じゃなくてゼロに走った。
  • みたいなことをつらつら考えていますが、今に至るまでうまくまとまりません。まとまれば、FTのカトルに繋がるところが出てくるかなあと思ったのですが……。
  • という、カトルがぶち切れるイベントには2つ以上の原因があったのではないかと思ってる説なのですが、今のところ証明しようがありません。
  • が、カトリーヌが今再び、リリーナのために戦おうとしているあたりにテーマの繰り返しがみられるので、もしかしたらFTで取り上げられることがあるかもしれないなー(読みが当たっていることが条件ですが)と思っております。終わり。

連鎖の鎮魂曲において、カトルはカトリーヌに向かって、「君は君らしく生きているか」「それを追い続けて死ぬのかもしれない」と発言しているので、年ふりたカトルは、そうしてしまった自分を引き受けて生きていこうと決めたのだと、思っております。

追記

フレンドさんから重要な考察をいただいたので、概要を付記いたします。

「敗者たちの栄光」のノベンタ暗殺の回において、トロワと五飛がノベンタに対して連合の罪を糾弾する中、カトルだけは彼を許して、逃がすという判断をした。
なぜならば、カトルは他の4人と違って、怨みや憎しみで戦っているわけではないからである。
彼だけは性善説に立って、「人類にはまだ救いようがある」と信じて戦っている。それは、社会に対して(この段階では)絶望したことがないからではないか。

※しいて言えば、義憤かなあと思っているのですが。